「追憶のハハウエ」 Route 1「マンホール」
 まだ、日本が貧しかったころ、道路のあちこちには、馬車馬が落としていった糞がころがり、運動会やマラソン大会の前日にはそれを踏んづけては縁起をかついだりしたものだが、その道路の真ん中には辻辻にマンホールが必ずあり、今のような凝った彫刻の施された鉄製のフタなどではなく、木を張り合わせて針金で括りつけたような、いささか危なっかしいフタが被せてあった。おりしも、そこに通りかかった5歳のわたしは、ポケットにおやつのグミかユスラの実をいっぱい詰め込み、手には一日のこづかい5円を握りしめて、紙芝居のはじまる公園へと急ぐべく思い切りそのマンホールのフタの上を踏みしめ、一路、水飴を練って早く白濁させては、あわよくばもう一本せしめようとがんばってる仲間たちのもとへ合流するはずだったのに、突然、視界が真っ暗になり、足や膝に鋭い痛みを感じて、何がおこったのだろうと訝りながら、見上げるとはるか上に五月の青い空。どうやらマンホールの中に落ちてしまったらしい。そして半ズボンのあたりにいやな湿り気を感じ、手をやってみると、その手が真っ赤、それを見たとたん、痛さよりもその色に触発されてワーッと泣き出してしまったらしい。どうやってそのマンホールの底から助け出されたのか、よく覚えていないのだが、気がついたら、泣きながら母親の前に立っていて、てっきり血だと思っていたあの赤い色はポケットの中でつぶれたグミやユスラの果汁の色だということが分かってホッとしながら母親の笑顔をはずかしげに見ていた。母親の手によって洗濯されたその半ズボンはしばらくの間、ものほしのはじっこに干されていた。赤染みの残るポケットを裏返しに外へだされた格好で.....

「追憶のハハウエ」 Route 2「ライオンズとセーター」
 西鉄ライオンズが全盛の時代があった。「巨人、大鵬、卵焼き」よりはるか前に、「神様、仏様、稲尾様」の時代があったのだ。その全盛を極めるライオンズが、わが町に来る事になった。娯楽の少なかったその頃、こども達はだれもが野球少年であり、この町ではだれもがライオンズファンであった。ライオンズが来る!みんな夢中で駅へ押し寄せた。駅のそばの原っぱで(この原っぱの片隅では金石とよばれた鉄鉱石がとれたのだが)キャッチボールをしていた6歳のわたしも例外ではない、スターたちを一目見ようと駆けつけた。そして一瞬でもプロ野球選手を見られたことに興奮しつつ、みんなでわいわいと原っぱに引き上げた時、その幸せの絶頂期から一挙に絶望の底に叩きつけられてしまった。母がわたしのために作ってくれた毛糸のセーター、新調したばかりの大事なセーターが、掛けていたところから忽然となくなっていたのだ。
 もうライオンズの選手を見られた喜びはどこにも無かった。わたしはすっかりうちひしがれて、後年、母の言葉を借りれば、真っ青な顔をして家へ帰ってきたそうである。そのセーターは二度と手元には戻ってこなかった。

「追憶のハハウエ」 Route 3「ホップ、ステップ、ジャンプ」
 子供たちの間で、ある時期、なぜか三段跳びが流行ったことがあった。おそらく、五輪かなにかのニュースを見て、その影響を受けたのかもしれない。近所の子供たちが集まるわが家の前の公園では、その時々によって、いろんなものが流行るのだった。ある時は、地面に漫画のヒーローの絵を描いて、その絵を地面ごと堀り外してまるでお面のようにすることだとか、土をまるめて完璧な球体を作り出すことだったり、植物の葉っぱをつぶしてその液汁を絞り出したり、今から思い返せば訳の分からぬことが,訳の分からない理由で流行ったものだった。なにせテレビゲームもまだなく、テレビ放送さえ、一日の限られたわずかな時間にしか無かった時代だったので、子供たちはありとあらゆる遊びを、その小さな公園の中で作り出したのだった。
 で、その三段跳びだが、ある夕方、わたしは、工場のむこうに沈みかけた真っ赤な夕陽を真正面に見ながら、ホップ、ステップと、勢いよく跳躍を始めたのだが、いざジャンプで高く飛び上がったものの、着地で見事に失敗!後方に頭から落ちて、後頭部をしたたか打ってしまった。そのあと、よく覚えていないのだが、気がついたら部屋の布団によこたわっていて、目をあけるのだが、物がよく見えない。いわゆる脳震盪というやつで、視力が低下しているらしい。えらいことになってしまった。今日は月末で、明日ついたちには、家族全員で津和野のお稲荷さんに商売繁盛祈願のお参りにいくことになっていたのだ。こんな状態ではわたしは置いて行かれるだろう。悲しくなって、いつのまにか眠ってしまったようだ。
 明くる朝、おそるおそる目を開けてみると、良く見える。完全ではないけれど、昨夜のようなことはない。母は苦笑いしながら、わたしも連れて行ってくれるようにみんなに言ってくれた。
 その日のお稲荷さんでの出来事は、まるで幽界でのことのようにわたしには記憶されている。まだぼんやりとした頭のまま、不完全な視力のもと、夢と現の狭間をさまよう亡者のように、わたしは母たちのあとについてお稲荷さんの境内をふらふらと歩きまわったのだった。
 ホップ、ステップ、ジャンプ、あやうくもうすこしであの世にジャンプするところだったのだ。

「追憶のハハウエ」 Route4 「弁当のおかず」
 小学校6年までは給食だったけれど、中学になってから弁当持参ということになった。母は毎朝、アルマイト製の平たいブック型の弁当箱に、様々なおかずと、ご飯を詰めて、持たせてくれた。
 わたしは、結構、好き嫌いの激しい方だったので、母も苦労したかもしれない。ご多分にもれず、卵焼きは大好物だったのだが、母は、その卵焼きを、いろいろ工夫して、中にいれる具材を替えたりして、わたしを楽しませてくれたのだった。ベビーハムを小さく刻んで入れ混んだり、ほうれん草をゆがいていれてみたり、ちりめんじゃこをいれたり、それは、多種多様だった。そして、その卵焼きは、弁当を食べるころには、圧縮されて、まるで出来合いの食品かなにかのように、固く固まっておかず入れの中で、わたしを待っていてくれるのだった。一緒に詰められた、きんぴらごぼうや、昆布の佃煮などの汁も、その卵焼きに密かに染み込んだりしていて、予想もつかない味となって、わたしを驚かせたりするのだった。
 運動会や、遠足などのときには、またいつもとは異なったメニューが加わった。特製のサンドイッチだ。今なら、コンビニで素敵なサンドイッチがお手軽に手にはいるようになったけれど、そのころは、商店にはパンはあるけど、サンドイッチ類は売ってない。そこで、母が考えた。包丁で耳を落としたパンにうすくマヨネーズをぬり、(そのころはもうマヨネーズは売り出していたのだ。大きなビン入りで。)短冊状に切ったキュウリとハムをのせて、やはりマヨネーズをぬったパンで挿み、包丁で食べやすい形に切る。実に単純な作りで、単純な味なのだけれど、子供のわたしには、途轍もなくおいしかったのだ。
 今では、ダイエットのために、サンドイッチなんかは食べないようにしているのだが、あの頃食べていた、母の手作りのサンドイッチの味が忘れられない。