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  大正7年7月27日に私は生まれたと聞かされているが、戸籍上は8月3日になっている。 父は若い頃から鍛冶屋をしていて、姉は私とは、四つ違いでした。父と母は若い頃、出稼ぎで九州の枝光というところの耐火煉瓦工場で働いていたそうで、幼い姉は工場の中をちょろちょろと走り回り、工場の監督から叱られていたそうです。そのころ、私はまだ、母の胎内にいました。 出稼ぎが終わって、島根の田舎に引き上げる途中で、その頃宇部に出ていた父の妹、つまり叔母のもとに立ち寄りました。その頃、叔母は太陽館という映画館を経営していました。後に山陽館と改名されたその叔母の映画館で私は生まれたそうです。大正7年の夏の暑い盛りでした。私が生まれて一週間も経たないうちに全国的に勃発していた米騒動が宇部にも起こりました。今の常盤通のあたりに米が投げ出され、時計などもまき散らされて、それは大変なものだったそうです。父は生まれたばかりの私を懐に入れ街中を当て所なくあちこち逃げまどったそうです。如才ない叔母は家の前にこもかぶりの樽酒を出して、暴動に騒ぐ人たちに酒をふるまい、危うく難を逃れたそうです。その米騒動の暴徒も軍隊が出て鎮圧され、その際、発砲により死者が何人も出たとのことでした。 とにかく、私の出生はこうして悲劇とともに始まったのでした・・・
 そして、私は島根へ・・・ 
 私の育った家は山と川に挟まれているような家で、家の前には大きな梨の木が二本あった。片方の梨はひょうたんのような実をつけ、もう一方は茶色くて丸い実をつけた。子供の頃、その梨がたわわに実をつけたのに嵐が吹き荒れることがあると、その翌朝、庭のあちこちに大きな梨の実が落ちていて、大喜びで拾ったものだった。また、夏の夜は、家の前の庭に近所の人たちが集まって、夜なべに縄をないながら雑談して過ごす時もあった。庭の前は石垣で、その上が田んぼになっていて、田んぼはさらに段々になり、山へと続いていた。その山と田んぼの間には水の流れる小さなイデがあり、川の上流から流れてくる水を、各農家が稲作のため、田んぼに引き入れるようになっていた。 山に向かって両側が田んぼで、右側の田んぼの上に私の祖先からの墓があった。何年も風雪に晒されたのであろう、墓石に刻まれた人の名も容易には判読しがたいのだが、そんな古い墓石が点々と並んで立っていた。 家の裏には無花果の木が三本か四本あり、またビワの木もあったが木は大きいだけでたいして実がならなかった。
 毎朝、私どもが顔を洗う小さな池が畑の下に出来ていて、底の方から水が湧き出ていた。その池には、腹の赤いイモウレンという奇妙な黒い生き物が棲んでいたが、そのそばには大きなゆずの古木が植わっていて、たくさんの実をつけた。祖父はそのゆずの実を大きな鉄鍋で何日もかけてコトコト煮詰めて、ゆず味噌を作ったものだった。私どもにはとてもじゃないが、苦くて美味しいものだとは思われなかったが、祖父や父は好んで食べていた。 畑の下には田んぼが二つばかりあって、さらにその下には川が流れていた。家の右側から下の川原に降りていく道が続いているが、川には丸太をつなぎ合わせて作った橋が架けてあった。そして同じような丸太橋はここから上流にも、また下流にも架かっていた。学校に行くには、いずれかの橋を渡って行かなければならなかったのだが、大雨が降った後などは、丸太橋を越すほどの水が出て、危険極まりなかったので、父に負われて渡ったものだった。今では、自動車も通れる、大きくて高い近代的な橋が出来ているが、かつて、私が好きだった人が大きくて立派な橋を架けたことがあった。ところが、何日も降り続く長雨に大増水となって橋は崩壊してしまった。それは今では遠い昔の思い出だが、なぜか二人の行く末を暗示するようで、私にはつらい思い出である。        島根の実家の裏の河原にて子供たち
 父は農業の傍ら鍛冶屋もやっていた。父は一人息子ゆえに大切にされていたようで、母の話では鍛冶仕事を習うのに、わざわざ師匠に家に来てもらって、住み込みで教わったという。しかし、そのかいもなく鍛冶の腕前はたいしたことなくて、母などは『ソウケ鍛冶屋』などと揶揄していたものだ。 私の家は貧乏で、私の着る物はたいてい姉のお古だった。私は時々、なぜ姉として生まれなかったんだろうと、運命を呪ったものだった。 しかしながら、天長節とか紀元節とかで学校での式がある時は母が自分の着物を仕立て直して新品のようにみえる着物を用意してくれた。その上に袴をはいて式に出席したのが、とっても嬉しかったのをよく覚えている。 私は子供の頃から本を読むのが大好きだったが、家では買ってもらえないので、隣近所で借りて読んでいた。もう近所の本も読み尽くすと、父に買ってくれと頼みたかったが、家の貧しさを思うと、言い出せなかった。そこで、私は、お祭りやお節句の時に街のコンニャク屋さんからコンニャクを安く仕入れて、街や近所の家々に売り歩き、その代金で本を買ったこともあった。今から思い返すと、よくもまあそんな勇気があったものだと、自分のことながら感心させられてしまう。それから考えると、今の子供たちは恵まれていると思う。本が読みたければ、図書館もあるし、貸本もあるのだから・・・ 
 母は隣村の滝原というところから嫁いで来たのだが、母の里も大変な田舎で稲作りより畑作りが多く、大豆やそば、粟などを多く作っていたようだ。村の名は濱原といって、部落の名が滝原というのである。その滝原に行くのにはなかなか大変で、濱原と滝原の間には、広島県から山陰の江津まで流れている江川という大きな川が横たわっている。そして、この川では鮎がたくさんとれて、それを商って生活している人もいるようだった。この川を渡って滝原に行くには渡し船に乗らなくてはならなかったが、この渡し船は部落の人が交代で運行していた。向こう岸に渡る時は、こちらの岸辺からオーイと向こう岸の船頭に呼びかけて、迎えに来てもらうという、のどかなものであったが、現在は橋が出来ていてそんな光景も見られなくなっている。 田舎では、秋祭りといえば、私たち子供には最大の楽しみのひとつであったが、滝原のお祭りには、末っ子の私は母に連れられて毎年のように行っていた。お祭りのあるお宮は、母の実家のすぐ近くだった。森に囲まれたお宮には高い幟の旗が色とりどりに立てられていて、遠くからでもお祭りをやっているということがわかり、道々、それを眺めながら私は心躍る嬉しさを感じたものだった。お祭りには、色々とご馳走があったが、その中でも、芋とかゴボウなどの野菜の天ぷらが最大のご馳走のように思われた。
 母方の里は、母の弟が家を継いでいたが、貧乏子沢山のたとえどおり。私のいとこにあたるものが大勢いた。また、母の妹も少なからず子供を連れてくるので、夜寝る時には、まるで芋の子のように、たくさんの子供らがごろごろと転がっていた。帰る時、叔母さんが、真っ赤なリンゴをそっと忍ばせて私にくださったことがたまらなく嬉しくて今でも忘れられない思い出のひとつである。母の母、すなわち私たちの祖母は、もう八十歳を超えていたと思うがまだ健在で、私はこの祖母が大好きだった。時々、私の家にも泊まりに来ていたが、私の父が優しくしてくれると言って喜んでいた。祖母は家に来る時は、お寺に弔問のある場合は必ずお寺に詣でてから、その後私たちの家にやって来るのだった。そのお寺は、私の村では一番大きなお寺で、秋には大きな祭りがあり、のぞきなどという見せ物屋をはじめ、たくさんの出店が参道の両側に並び、歩く隙間もないほどたくさんの人たちで賑わった。そして、村々を回ってくる芝居も毎晩のように上演されていたが、私は二十歳になってはいても、なかなか行かせてもらえず、泣いてしまったこともあった。しかしながら、近所の子供たちも行くので両親も仕方なく無理をして行かせてくれたこともあった。 提灯にローソクを灯して、細い道をがやがやと話しながら行くのが、楽しみでもあり、嬉しくもあったが、帰り道は、眠たくて眠たくて、道がとてつもなく長く感じたものだった。翌朝、学校に行くために早く起きねばならず、とても辛い思いをしたが、私は毎朝のように姉と一緒に姉が雑巾がけを、私が庭を掃いてからそのあと学校に行っていた。
 件のお寺に、私は祖父や父に連れられてよく行ったものだった。お寺では『おとき』という食事が出ることがあって、それが楽しみだった。滝原の祖母は頭の毛が薄くなっておりいつも白い手拭を頭に冠って座っていた。私は後ろの方から、その白い頭を探しては祖母が見つかると嬉しくなってすぐそばに行って座った。祖母は来る時は、いつも飴玉をお土産に買ってきてくれた。私たちは祖母の来るのも嬉しかったが、それ以上に、その飴玉も、とても嬉しかった。私は小さいときからパンとかお菓子を貰うとその時に食べずに、箱の中にいろいろと並べて眺めているのが好きだった時々、箱から出して眺めて楽しんでいると、姉が横から少し頂戴などと言ってきたのを覚えているでも、それを断って、姉を羨ましがらせるのもまた、私の密かな楽しみであった。 兄のことはあまり記憶にはないが、兄が小学校の時であったか村の大地主で本林という家のお坊ちゃんの面倒を見てくれる人をさがしている、誰か良い子供がいたら世話をしてくれないかと校長に話があったとかで、その役に兄が選ばれて行くことになった。 兄は口数の少ない、おとなしい人だった。いったい何ヶ月くらいそこに行っていたのかは定かではないが、その縁で、後年、農地解放で小作制が廃止になってから、その地主さんが旅館を始められた時、板前として迎え入れられたのであった。
 私が一年に入学した時、新しい教科書をいただいた。国語の教科書は、ハト、ハトで始まっていた。  その頃は修身という科目もあって、二宮金次郎などの話を、先生が面白く話して下さり、子供心にも感心しながら聞いていた。これは私の大好きな科目のひとつであったが、今でも、このような科目は必要なように思う。 一年の時の担任は、小笠原先生といい、髪を大きく丸く結われていたのを覚えている。一年から二年に上がる時、学級で成績三等の賞状をいただけることがあったが、名を呼ばれて壇上に上がるとき、ペロッと舌を出したと母から指摘されて、あとでとても恥ずかしい思いをした。 二年になると、担任は芥川先生で、一年の時の担任よりも大分若い先生だったが、いつも袴の横から両手を入れる癖があるので皆が変な噂をして面白がっていた。 学校に行く時は、近所の子供たちが誘いに来てくれていたが、母はいつものように、人を待たせないように、早くするようにと私を叱っていた。登校前に雑巾掛けと庭を掃除するのが、私と姉に決められた日課だった。そしてそれが終わると、姉が私の髪を結ってくれていたが、私の髪は柔らかくて、もつれやすく、梳かしにくかったのだろう、痛さのあまり、姉の膝を横から叩いたものだすると、姉も仕返しに櫛の背で私の頭を叩いて、よく喧嘩になり、母から叱られて火吹き竹で叩かれたものだった。
 そんな火吹き竹も、そして、それを振り回していた母も今はもういない。 母は姉の初めての子供の出産のため、岡山に行き、その帰りに宇部に立ち寄ったことがあった。その頃、私は宇部で女学校に通っていた。母は長旅の疲れからか、風邪をこじらせ入院してしまった。私は末っ子の我が侭からか、その頃は少しも母に優しくなかった。今思うと、すまないという悔恨の気持ちでいっぱいだ。母は一度は退院したものの、田舎に戻ってから病気がぶりかえし、とうとう帰らぬ人となってしまった。 母は死ぬ前には肺を冒されていたので、私たちとは一緒に暮らせず、別棟の二階に寝かされていた。父は以前には浮気を重ねては母に悲しい思いをさせてばかりいた。ある夜母に言われて、小料理屋で飲んでる父を迎えに行くことになった。丸い提灯のローソクに火を灯し、母は私に手渡してくれた。私は勇気を奮い起こして街へむかった。真っ黒な山が怪物のように見え、橋を渡るとき、その昔大水が出て橋が落ち、流されて死人が出たときのことが思い出されて怖くなり、歩く足が自然と早くなるのだった。小料理屋に着くと、二三人で大騒ぎしていた父が私を見つけて、座敷に上がれと無理矢理勧めて私をそばに座らせた。家で寂しく待っている母のことを考えると面白いはずもなく、早く帰りたい思いだけが心の中で渦を巻いていた。
 そんな父も母が病の床につくと人が変わったように献身的に看病をした。母は肉類や牛乳が嫌いだったため、精をつけようと、父は大豆を一晩水にかして、朝早くそれをすり鉢で細かく潰し、煮立ててから濾して豆乳をつくり、毎日のように母に飲ませていた。また、痛みに効く薬があると聞けば、どこまで行っても探し出しては、それを飲ませていた。しかしながら、父の看病の甲斐もなく、母の病状はどんどん悪くなっていった。いよいよ、今夜あたりが最後かもしれないと医者から宣告されたとき、お寺のお坊さんが見えて、母にいわゆる引導を渡したが、今思うと残酷なものだと思う。母の臨終を私たちは遠くから立って眺めていた。近くに寄ると病気がうつるからという理由で。姉は病的なほど潔癖性で、母の病状がそれほどでもない頃でも、母にあまり近寄らないようにしていた。しかしながら、私はそんなことには無頓着で、母に近寄っていたせいか、やがて、母と同じような病気に罹って入院することになった。 母が亡くなってから私は、幽霊でもいいから私のところに出てくれないかと、夜になると思っていたものでした。                                     
                       
                            (未完)